横溝作品の映像
 
最終更新 2003/06/12

 五人の一柳鈴子
 「金田一耕助の冒険」は駄作か?

●五人の一柳鈴子(本陣殺人事件)(ストーリーに関するネタバレを含みます。ぜひ原作をお読み下さい)

 横溝正史の代表作、「本陣殺人事件」は、今までに五回、映像化されています。片岡千恵蔵が金田一耕助のモノクロ版(「三本指の男」)、中尾彬のATG映画版、古谷一行の「横溝正史シリーズ」版、同じく古谷一行の二時間サスペンス版(このシリーズを何と呼ぶかは決まっていないのですが、このサイトでは、CD「金田一耕助の冒険【特別編】」に従って「金田一耕助シリーズ」と呼んでおきます)、そして、片岡鶴太郎の二時間サスペンス版です。
 片岡鶴太郎版はおきますが、他の四本では、被害者の妹に当たる十七歳の少女、一柳鈴子が重要な鍵を握り、また、強烈な印象を残しています。
 もともとの原作では、鈴子はこのように描写されています。

「ところで末娘の鈴子だが、この娘はたいへん気の毒な娘さんで、両親の老境に入ってから産まれたせいか、日陰に咲いた花のように、虚弱で腺病質(早見注:体格が弱々しく、病気にかかりやすい小児の虚弱体質のこと)だった。知能もだいぶ遅れていたが、但し、決して低能者ではなく、ある方面では、たとえば琴を弾くことなどにかけては、天才的ともいうべきところがあり、またおりおり非常に鋭いひらめきを見せる事があるが、概してする事なす事が、七つ八つの子供より幼いところがあった。」(角川文庫より)

 この、病的で、ある意味エキセントリックな少女は、戦後傾きかけていく本陣の名家の雰囲気そのものを表わし、作品全体の一つの基調ともなっているのです。この小説のラストシーンは、鈴子で終わるのですから……(詳しくは原作をどうぞ)。

 さて、まずは75年のATG映画「本陣殺人事件」(監督:高林陽一 DVDはパイオニアLDC PIBD-1059)。「犬神家の一族」に先駆けて公開され、ヒットしてその後の横溝ブームに大きな役割を果たした映画ですが、この映画での鈴子は、当時若者にとても人気のあった女優、高沢順子が演じています。(映画の代表作 「新・同棲時代」「人間の証明」、TV「前略おふくろ様」「事件」など)
 鈴子は、事件のあった翌年に病死するのですが、この映画は、その鈴子の葬式から始まるのです。
 夏の昼、陽炎がゆらめく中を、白いジーンズ姿の青年、金田一耕助(中尾彬)が行きます。手には、鈴子へのおみやげであろう、キューピー人形をぶら提げています。と、向こうから、白い旗を立て、鉦を鳴らして、葬列がゆっくりとやって来ます。
「やはり私の予感は当たった。あれはきっと、鈴ちゃんが死んだに違いない」……。
 掲げられた鈴子の微笑む写真にオーバーラップして、一年前の鈴子の顔が映ったところから、物語が始まります。
 白い着物を着た高沢順子は、背が高いせいか、やや猫背気味で、おかっぱ頭の前髪から、猫のような目をきょときょとさせています。実際、鈴子は猫を飼っていたのですが、その猫が乗り移ったような、映像化された中でも最もエキセントリックな鈴子です。
 ちなみに角川文庫の「本陣殺人事件」では、猫を抱いた鈴子の顔が描かれており、この映画のポスターでも、鈴子が猫を抱いたアップが中心になっていますが、これはただ、雰囲気を出すためだけではありません。この物語で、鈴子とその猫は、大きな役割を果たします。
 この映画は、舞台を現代にしているため、鈴子はその後、ジーンズ姿で花に水をやったり、スカートで無心に草原を歩いたりと、現代の装束で登場しますが、その間にも、ふいに蛙をつかまえてみたり、おびえて「みんな殺される」と口走ったり、エキセントリックな様子を見せます。一方では、妙に大人びた様子を見せることもあります。
 久保克子の回想シーンで、現代の都市が映し出されたりするだけに、自分の世界に閉じこもった鈴子の様子は、より浮き上がった存在として、浮世離れした、旧本陣を象徴するかのようです。また、映画の中で、「賢蔵さん(この事件の死者で本陣の当主)はどこか鈴子ちゃんに似ていますね」という金田一耕助の言葉も、意味深いものを持っています。
 そして、無心に野原で花を摘む鈴子、事件のことを何も知らないまま、人の死について金田一耕助に問う鈴子は、リリカルな音楽(作曲は映画監督の大林宣彦)と相まって、詩情をかもし出しています。
 映画は、舞台を現代にしたことを除くと、非常に生真面目に、原作に忠実に作られていて、その中に持ち込まれた詩情は、その後の横溝作品の映像に、影響を与えているように思います。渥美清金田一の「八つ墓村」のようなホラー狙いの作品もありますが、石坂浩二金田一のシリーズなども含め、横溝作品の映像は、わりあいに、洗練された詩情を持つものが多く、その辺りが、ブームの秘訣のように思うのです。
 その一端を担ったのが、高沢順子の演ずる鈴子でした。

 次に「本陣殺人事件」が映像化されたのは、77年の「横溝正史シリーズ」です。一時間枠のこのテレビ映画は、原作の長さに合わせて各話の回数を調整しており、「本陣」は比較的短い作品なので、全3話になっています。
 この作品は、どういうわけか、昭和二十三年初春、という設定になっており(原作の設定は昭和十二年)、金田一耕助は、新婦・久保克子のもとからの知り合いとして婚礼の場に参加しています。
 そこに登場するのが、西崎みどり(現・西崎緑)の鈴子です。この人は60年生まれですから、このときちょうど十七歳、原作にもぴったり合った年齢ですが、エキセントリックではなく、どちらかというと可憐な鈴子です。最初のセリフが、琴を弾く直前の、「タマはかわいそう」ですが、そのセリフも異様な感じはなく、しっとりとした雰囲気を出しています。
 話数が3話とはいえ、正味142分という長さがあるので、淡島千景演ずる糸子刀自(当主・賢蔵の母)の比重を重くして、原作ではあまり意味を持たない、大叔父の伊兵衛を取り上げ、原作にはない、伊兵衛と糸子刀自との関係が作られているのが、この作品の特色です。
 脚本は安倍徹郎、時代劇の多い人ですが、池波正太郎に鍛えられたベテランで、冒頭から事件が起こるまでの間に、三本指の男(草野大悟)の登場から主たる人物の紹介と、テンポよく設定を見せていきます。
 それはさておき、その、糸子刀自を中心としたドラマの比重が高くなっていることもあって、この作品では、鈴子はあまり、出番がありません。本陣という旧家を巡る問題は、伊兵衛と糸子刀自、そして一柳三郎(荻島真一)と糸子刀自との葛藤によって描かれています。また、物語は、古谷一行扮する金田一耕助の推理を丹念に追っているので、ますます鈴子は、必要な役割だけを果たしているように見えます。
 しかし、あくまで鈴子中心に見ていくと、数少ない登場場面では、西崎みどりの鈴子は、その可憐さをよく発揮しています。ただし、それは主に、西崎みどり本人の可憐さによるもので、どっちかというと、しっかりした少女のようにも見えます。また、この鈴子は、ATG版とは異なり、目の前で起きていることを理解しているようにも見えます。事件が起きたときの怯えようなどから、そう取れるのです。
 この作品での鈴子の見せ場といえば、賢蔵と克子の死を金田一たちが発見するとき、何も知らず、家の外でわらべ歌を歌っているシーンで、ここでは、鈴子の幼さが見える仕掛けになっています。
 なお、この作品では、鈴子は脳腫瘍で先が長くない、という設定になっていますが、その設定は、特に(鈴子的には)大きな意味は持っていません。

 さて、次にご紹介したいのが、TBSで現在も続いている古谷一行のシリーズ(「古谷一行劇場」とか、「金田一耕助シリーズ」とも呼ばれています)の第一作、83年(当時は「ザ・サスペンス」枠)の二時間ドラマ版「本陣殺人事件」です。
 私は、この鈴子が、最高だと思っています。

 ここで鈴子を演じたのは、牛原千恵という女優さんです。66年生まれ、これもちょうど十七歳の鈴子です。
 牛原千恵についてもうちょっと書くと、お父さんが牛原陽一、お祖父さんが牛原虚彦という、どちらも有名な映画監督で、デビューは79年の映画「子育てごっこ」、映画の申し子のような人です。
 ちなみに、ひとからいただいた情報では、牛原陽一は、「毒蛇島奇談 女王蜂」で助監督を務めたそうです。縁は巡る糸車、というところでしょうか。
 さて、この二時間版「本陣」は、「横溝正史シリーズ」と同じ安倍徹郎が、再度、脚本を書いています。(監督は、時代劇で有名な井上昭)
 そのため、糸子刀自と伊兵衛の関係など、基本設定は「横溝正史シリーズ」を踏襲していますが、正味時間が少ない分(約94分)、絶妙の省略法で、手際よく語っていきます。タイトル前の、古谷一行のナレーションで、克子の結婚から、鈴子に脳腫瘍があること、タマの死、三本指の男の登場までさらりと説明してしまう辺りや、時間の割りに多い登場人物も、短い時間で印象づける辺り、プロですね。
 それでいて、より内容を濃くし、新たな意味合いを付け加えているのには、同じ脚本家が二度挑戦する意義を感じて、感心しました。
 で、その新たな意味合いの、重要な要素として、ATG版にも負けるとも劣らず、強く押し出されているのが、鈴子なんですね。このテレビ映画は、鈴子で始まり、鈴子で終わるのですから。
 冒頭、真っ赤なグミか何かの枝を顔の前にかざして、わらべ歌を口ずさみ、無心に微笑む鈴子のアップから、映像は始まります。その背後に蒸気機関車が走り、金田一耕助の登場から先ほどのナレーションとなり、説明が終わるとタイトルバックでは、画面の左側に着物の鈴子がぺたんと座ってお手玉をしている、右側ではアップで血がしたたっている、という絵です。
 そこから例によって、婚礼が始まるわけですが、とにかくこのタイトルまでで、この物語は、鈴子が象徴しているんだ、ということが、いやでも分かるようになっています。
 牛原千恵は、いわゆる「美少女」ではありません(この単語は嫌いなんですが)。どちらかというと庶民的で、親しみやすくはあるものの、旧家のお嬢さんという感じではありません。しかし、演技がそれを補っています。
 無心で、目鼻立ちが親しみやすいのを生かして、影が薄い感じを出しています。どこかいつも放心したような表情と、それがときに見せる笑顔の、白い歯のこぼれ方は絶妙です。その口が半開きの感じも、本来の鈴子らしい「幼さ」をよく表現しています。
 事件の後で、警察の捜査から追い出されて手持ちぶさたの金田一は、鈴子に誘われて、タマの墓参りへ行きます。鈴子はやっぱり、わらべ唄を口ずさんで、背後は真っ赤な夕焼けです。短くも、印象的なシーンです。
 このテレビ映画は、全体に色と光の使い方がうまいのですが、特に赤い夕焼けは、この鈴子によく似合っています。
 この後、展開を締めるためか、他の「本陣」にはない、タマの墓に三本指の血痕が発見された、という話があります。猫の死骸、それを見て頭を押さえて苦しむ鈴子。事件は、鈴子を苦しめているかのようです。
 ところでこの映像では、三郎も、「横溝正史シリーズ」より前面に出てきています。演じたのは、若き日の本田博太郎。今のように、出てくるだけで場を食う役者としての片鱗を見せ、いつも鬱屈していて、何か含むところがある、という設定を、演技で見せています。一柳賢蔵が、わりとエキセントリックではない西岡徳馬であり、高峰三枝子の糸子刀自が優しい人という設定であるため、本陣の「異様さ」は、主にこの二人の役者の演技と、耽美的とも言える色彩感覚とで示されています。
 この文を書くためにメモを取りながら、ちょっと目を離すと、また鈴子が登場します。琴を金田一に見せる鈴子は、「糸はどこにあるの?」ときかれると、ほんとにきょとんとした顔になり、「琴の糸」と言われるとにっこり微笑んで金田一に渡し、次にはうっとりと、琴に寄り添います。事件の説明となる部分を、見せ場に変えてしまう演技(と脚本)が、この鈴子には備わっています。
 それに心を奪われていると、はや三郎の出番です。本田博太郎の三郎は、挑戦的ではなく、むしろ、早く事件を終わらせたいかのようです。それどころか、この家自体をこの世から早く消したい、という意味のセリフをはっきりと吐露します。彼の鬱屈の原因――それは後に、意外な形で明かされます。
 あっという間に正味で一時間がたち、墓の前で頭を押さえてうずくまる鈴子。金田一を詰問します。「あなたでしょう、タマのお墓を掘り返したのは。……タマはかわいそう、毎日毎日お墓を掘り返されて」。詰問の後の放心、その対比が鮮やかです。そして、時間が短いせいもあってか、鈴子が事件の鍵となる証拠を次々に示していきます。これまでの「本陣」のイメージ的な使い方でも、必要なときだけ出てくるのでもなく、積極的にストーリーにからんできます。
 ここで金田一は、一気に事件の真相を言い当ててしまいます。テンポの速い展開のせいか、金田一も名探偵ぶりが増しているようです。
 密室の絵解きはあっという間に終わり、三郎の鬱屈が、いよいよ明らかにされます。三郎も、賢蔵も、実は母親が好きだったのです。あからさまにはされませんが、ほとんど近親愛に近いほどの愛情です。その母が、叔父の伊兵衛(名優・山内明が好演)と通じていた。そのことが、彼らを、特に三郎を事件に駆り立てた、その、ある意味では原作よりもおどろおどろしい情念が、本田博太郎によって語られ、表現されるのです。
 「本陣」の、原作の動機は、ある種今では通じにくい部分があります。それを、現在にも通ずる情念のドラマに仕立て、また、原作ファンも納得するような(私はしました)動機付けに持っていった脚本家・安倍徹郎の腕には、うならされます。
 重傷を負った三郎は、瀕死の状態で、母の胸に抱かれます。おそらくは、彼はこのまま死んでいくのではないか、死なないまでも滅びていくのだろう――そう思わせる、三郎の最後の場面です。
 事件は、終わりました。しかし、そこには虚しさが漂います。事件を解決した後の虚しさは、金田一耕助の特長でもあります。
 金田一は、久保銀造(下城正巳)と友に帰ろうとします。言い忘れましたが、この物語は映像のためか、放映が83年2月19日のせいか、季節は晩秋に見えます。落ち葉は舞いますが、雪が降りません。
 木枯らしの吹き落ち葉の散る本陣の門を、金田一が出ようとします。するとそこには、鈴子が座り込んで、お手玉をしています。
 金田一を見上げて、鈴子は無心にききます。「おじさん、どこへ行くの?」「帰るんだよ、おうちに」「また来てね」。だが金田一は何も言えないのです。なぜなら家は滅びるのだし、たとえ今度来たとしても、鈴子は脳腫瘍で、おそらくもう、生きてはいないのですから。
 間があって、鈴子は手にしたお手玉を、「あげる」、と差し出します。「ありがとう」と受け取り、行こうとする金田一。だが鈴子は、何を感じてか、その裾にすがりつきます。そこで金田一は、こらえかねて、鈴子をぎゅっと抱きしめるのです。鈴子は何も分かっていないかのように、無表情です。しかし、頬に涙が一筋、流れます。
 田舎の駅のホームで、久保銀造が呟きます。「鈴ちゃん、あんなに強く抱きしめられたことはなかったんだろうなあ……」。このセリフを味わっていただきたいものです。木枯らしの吹く音、「今、琴の音がしませんでしたか?」「いや、風さ」。そしてクレジットは流れ、バックには、鈴子が持っていたグミの赤い実の房が映っています。
 鈴子に始まり、鈴子に終わる。ほとんど、主役の扱いではありませんか。
 二時間枠の中で、たっぷりと間を取った余韻のあるラストシークエンスを、牛原千恵は、堂々と演じています。この映像を思い出すとき、いやでも鈴子を思い出さずにはいられない、名演技です。
 これが、私にとって、最高の鈴子たる所以なのであります。鈴子をここまで描いた「本陣」は、他にはないのです。

 次に書くのは、いや、書かねばならないのは、できるだけさっ、と通り過ぎたい作品です。
 片岡鶴太郎が金田一耕助を演じるフジテレビの2時間シリーズは、90年の「獄門島」を皮切りに、9本が作られています。「本陣殺人事件」はその三作目として、92年に作られました。
 脚本は、原作を大胆に改変しています。私は、原作の改変には文句を言わないほうです。――成功している、と思えば。
 しかしこの「本陣」では、その改変のしかたが、どうもカンにさわってしかたがないのです。まず時代は昭和29年4月、農地解放も関係なく、一柳家は傲岸とも見える糸子未亡人(佐久間良子)のもと、大いに栄えています。そして、原作ではほとんど触れられるだけの長女、古出川祐子が実質的に家を取り仕切っています。その下に、小田茜の鈴子がいる。そう、この作品では、一柳家は女系家族として描かれているのです。
 それに対する、賢造と三郎の反抗が、事件を生んだ一つの原因となっています。賢造は、本田博太郎が演じていますが、珍しいほどに地味で、見せ場がありません。三郎は、一柳家の家督を継ぐことに執着しています。三本指の男も、原作とは違って、そうした家族の争いに密接にからんできます。
 で、なぜカンにさわるか、というと、これまでの映像化が忠実に反映していた原作のイメージ、滅び行く旧家、旧体制、その滅びの美とも呼べる部分が、この作品のストーリーには、ないからなんですね。
 そのせいか、鈴子の印象も、私にはいいものではありませんでした。第一に、「幼さ」がありません。小田茜はこのとき15歳なんですが、妙に大人びていて、セリフにも幼い印象はありません。しかもたいへん健康的な体格で、棒でぶん殴られても死にそうにありません。実際、この物語では、鈴子が将来的に死ぬ、という設定はありません。
 あれこれあいまって、この作品での鈴子は、ただの元気でわがままな女の子、にしか見えないのです。お話全体が、強い女の話になっていているのですが、それを反映してしまっています。
 耽美的な幻想小説でも知られる劇作家・岸田理生が、なぜこのような脚本を書いたのかは、未だに謎です。何か事情でもあったのか、とききたくなります
。  もう一つ気になるのは、片岡鶴太郎の金田一耕助が、ナンパなことです。
 金田一耕助は記録によれば二回しか恋をしたことがなく、どちらも実ることなく終わっているのですが、この作品では、あろうことか、久保克子にまで淡い恋心を打ち明けられ、本人も好きだったようです。そして、このシリーズのお約束として、ほぼ毎回、牧瀬里穂が何かの役で登場することになっているのですが、今回は、白木靜子として登場します。その白木靜子と金田一の間にも、妙な雰囲気が漂います。
 原作ファン、金田一ファンが、このシリーズを認めないのも、無理はないでしょう。金田一耕助は、決して軟派な男ではないからです。
 これから見る人もいると思いますので、多くは語りませんが、この作品は、加藤武が磯川警部として登場し、「よし、分かった!」と言うセリフを吐く以外には、どこも横溝正史ではないし、どこも「本陣殺人事件」ではないし、ましてや、どこも鈴子ではないのです。
 私は、すべての映像は、見てから批判するのが当たり前だと思っていますが、論評するのではなく、横溝世界を楽しみたい方には、見る機会があっても、お勧めはしません。まったく横溝とは別の何かだ、と割り切って見るしかない作品です。

 さて、残るは一本、片岡千恵蔵の「三本指の男」です。
 この映画は1947年(昭和22年)の12月に公開されました。その後、千恵蔵=金田一のシリーズ化に伴い、二度、リバイバル公開されています。
 非常に力の入った映画で、白木静子には原節子、磯川警部には宮口精二、久保銀造には三津田健、その他、豪華なキャストです。脚本は、東映の重鎮・比佐芳武、監督は松田定次と、スタッフも豪華で、それは、画面に現われています。
 映画を見て驚かされるのは、まず、テンポのよさです。84分という短さもあるでしょうが(公式記録による。私が見たものは72分しかありませんでした)、原作を、更にふくらました複雑な人間関係を巧みに整理し、物語の進行も速く、とても終戦直後の映画とは思えません。脚本、監督の力でしょうね。
 もう一つは、さすがに東映スター・片岡千恵蔵の主演映画だけあって、セットが豪華なことです。この映画以外で「本陣」を見た方は、どちらかというと狭苦しい空間を思い浮かべるでしょうが、実際の本陣宿は、大名行列が泊まれるほどの広さだったわけで、その豪壮さを、再現しています。
 この映画で鈴子を演じるのは、八汐路恵子。この年映画デビューしたお嬢さんで、その後、「笛吹童子」「怪傑黒頭巾」などの時代劇に出ていますが、最近では、78年の「冬の華」(高倉健・倉本聰コンビの第一作)、そして12年のブランクを経て、90年に「極道の妻たち 最後の戦い」、91年に「新極道の妻たち」に出演しています。
(参照:「日本映画データベース」
 調べてみて、宝塚の出身だということは分かりましたが、年齢は分かりませんでした。映像を見る限りでは、まだ子役と言ってもいいような、幼いお嬢さんで、和服ですが、髪はお下げにしています。おでこの広い、当時の「美少女」タイプの女優さんです。
(よく言うことですが、日本語には、「美少女」という言葉は、もともとありません。おそらく、1980年代以降の造語ではないでしょうか。逆に言うと、美しくない少女は、映像には出なかった、とも言えるかもしれません)
 この映画は、まだやせている片岡千恵蔵の、好青年で、ちょっとユーモラスな名探偵ぶりと、後に助手になる白木静子こと原節子(後のシリーズでは、毎回、女優が変わっています)の頭の切れるコンビを、出会いからたっぷり見せていますので、鈴子は、ほとんど登場しません。
 「白木静子が金田一の助手?」とお思いでしょうが、千恵蔵=金田一のシリーズは、「原作を読んでいる観客でもあっと言わせる」、という脚本家・比佐芳武の信念の元に、物語や犯人を、大胆に改変してあります。
 なので、この事件で金田一と出会い、警察も顔負けの活躍をする白木静子は、このあと金田一の助手になることになっています。
 しかし、数少ない鈴子の登場シーンでは、鈴子は、重要な働きをします。まず、登場のときに琴を弾いていたのが、足音をききつけて、「お兄様だわ」、と賢造の帰宅に気づくところ。ここでは、鈴子のカンの鋭さが、描かれている、と私は思います。
 そして、後に掲載する芦辺拓さんの文章にもあるように、最後には、鈴子が事件を解明する、鍵を握ることになっています。決して、ないがしろにされてはいないのです。
 この映画も、舞台が戦後に移されていますが、農地解放と、それに伴う旧家の没落が、他の映像化された「本陣」よりも、いっそう重要なテーマになっています。これは公開当時の昭和22年には、たいへんタイムリーな設定だっただろうと思います。
 その中での鈴子は、滅び行く旧家の象徴ではなく、新しい民主主義の時代を担う、希望の象徴として、位置づけられているように見えました。ここでも鈴子は、映画のトーンを担っている、と言ったら、ひいきのひいき倒しでしょうか。
 その時代性が、金田一のセリフとあいまって、強い信念を持って描かれているので、大胆な改変は、私は気になりませんでした。こういう鈴子もいるのだな、と思ったわけです。また、「本陣」を戦後の話にするのも、こういう意味づけのしかたがあったか、と感心したほどです。
 ちなみに、その大胆な改変にも関わらず、メイントリックや、主要な設定は、意外に原作を踏まえているように、私は思います。

 こうして、今のところ映像化された、すべての鈴子を見てきたわけですが、それぞれに興味深く、また、鈴子を見れば、その映像が分かる、といった重要な少女だ、というのが私の感想です。
 ……今、小説家として、また映像ライターとしての私は、「少女」を描くことに執着し続けていますが、そのきっかけは、角川文庫版の「本陣殺人事件」と(カバーイラストも含め)、その後見た、西崎緑の鈴子にありました。そのため、鈴子には、思い入れを持たないではいられないのです。

 なお、「三本指の男」については、芦辺拓さんが、ご自分の掲示板で長文を書かれています。私の書いたことと重複する部分がありますが(というか、ほぼ同じ文になってしまいました。それほど印象のはっきりした映画だ、ということです。)、この映画の本質を、より深く捉えていると思いますので、ご本人の承諾を得て、下に転載します。詳しい内容が記されていますので、これからご覧になる方は、お読みにならないほうがいいでしょう。逆に、どういう映画か知りたい方は、お読みになるといいかと思います。







(以下は「芦辺倶楽部掲示板」より転載。原文のまま)

 はやみ。さん、および他のみなさんにお約束した映画「三本指の男」の感想&説明です。

  三本指の男/製作=東横映画 配給=大映   1947.12.09 再映:1950.08.01 1953.10.20 9巻 2,293m 84分 白黒
  製作・牧野満男/監督・松田定次/脚本・比佐芳武/原作・横溝正史

 原作では戦争前、昭和12年との設定になっていますが、この映画では戦後が舞台となっており、千恵蔵扮する金田一耕助と原節子扮する白木静子(原作と違って美人の設定、以降喜多川千鶴、高千穂ひずるなど女優を変えながらレギュラー化)が、ともに一柳賢蔵との結婚を前にした久保春子――原作では克子――を訪ねる車中で出会う場面から始まります。

 二人が向かうのは、春子の叔父・銀造が経営する「久保果樹園」。いかにもアメリカ風の明るさを感じさせ、これがあとの本陣一柳家といかにも対照をなしています。この第一作での千恵蔵金田一は長旅の手土産に亀を持ってくるようなとぼけた味を出し、“アメリカ流のざっくばらん”が強調され、そんな彼や久保夫妻は花嫁姿の春子に、家風や身分といった古い考えに負けないよう励まします。なぜ探偵などになったかと静子に訊かれて「犯罪を憎むからですよ。犯罪のない楽しい社会をつくりあげたい。その夢が僕を探偵にしたんですが……」と答える耕助。

 さて、一柳家と久保のもとには、春子が女子師範時代に付き合っていたという田谷照三のことを暴露した手紙が届いており、一柳家の支配者・糸子(何と杉村春子! このほか、磯川警部が宮口精二、前出の銀造が三津田健など文学座の面々が出演しています)は息子の結婚に対する反発を強めています。田谷なる男は戦後、顔と手に傷を負った姿が目撃されており、やがて一柳家の近辺に怪しい三本指の男が現われ、ついに祝言の夜、惨劇が――ということになります。

 密室トリックは、凶器の日本刀が長大な包丁のようなもの(劇中では「刺身包丁」と呼んでいたと思いますが、刀を劇中に、しかも殺人の手段として使うことがGHQに対しはばかられたためとのこと)に変えられている以外はほぼ原作に忠実。ATGの高林陽一監督「本陣殺人事件」が公開され、その解明シーンで一か所説明を省略した個所があったとき、「三本指の男」を例に出しての批判が出たぐらい丁寧なものとなっています。

 ただ、脚本家・比佐芳武氏の「原作を読んでいる人にも驚いてもらう」というポリシーに基づき、せっかくの不可能犯罪の構図をひっくり返してしまうとんでもない展開、そして三本指の男のこれまたとんでもない正体(誰が演じているのかは一目瞭然ですから、いったいどう処理するのか見ていて手に汗を握りました。そして……Bomb!)という両趣向には度肝を抜かれました。ここから、物語は原作とは全く違う真相へと導かれてゆくのです。

 このあたり、今の観客や映画ライター氏らからはツッコミどころでしょうが、実はこれがこの映画の眼目なのでして、ラストの解明シーンにおける千恵蔵金田一のセリフを聞きましょう。

「この事件の心理的原因は、古きものの新しきものに対する憎悪、封建思想の自由に対する絶望的抵抗です。犯罪の計画は、賢蔵さんが一柳家の全農地を無償で小作人に提供すると決意したときに芽生え、久保春子との結婚が動かしがたいものとなったときにはっきり具体化しました……」

 これに先立ち、彼は糸子未亡人を「家名という馬鹿々々しい亡霊のために、犯人を法の審判から遠ざけようとしている」と非難し、さらに推理のあとで「ご隠居さん、あなたはまだいいのです。あなたには三郎さんがいます。鈴子さんがいます。しかし、久保夫妻には、夫妻にはあとには誰もいないのです。……生涯の全てのものは、この事件のために、因習と偏見のために失われてしまったのです」と諭します。

 このセリフからすると、原作やその他の映画で一柳家の退廃と滅びのシンボルとされがちな鈴子が、むしろ無垢なるがゆえの明日への希望として描かれていることがわかります。そして、この事件で重要な証言をすることになるのが、ほかならぬ鈴子であることからも、それは明らかでしょう。

 そういえば、同じ千恵蔵主演の「獄門島」では、「しょせんは密貿易と海賊の汚名で築き上げた本鬼頭の家名、系譜、家柄、由緒が三つの生命にかわるほど貴重であるとはまさに愚劣!」という痛烈な指摘があり、ラストでは原作では章題でしかない「封建的な、あまりに封建的な……」を千恵蔵がつぶやき、金田一シリーズに先立つ松田・比佐・千恵蔵トリオによる探偵もの「七つの顔」や「二十一の指紋」でも、新しい世代を憎み、陥れようとする戦前からの支配階級が告発されていました。

 なお、「三本指の男」の一場面を見たい方は、「しねらまん」というサイトの

http://www.ne.jp/asahi/betty/boop/3bonyubi.htm

 をご覧ください。また一番下のurlをクリックすると、同じHPのインデックスに出て、「三本指の男」のほか、同じ千恵蔵版の「獄門島」、高倉健主演の「悪魔の手毬唄」のほか、「吸血蛾」「毒蛇島奇談・女王蜂」「蜘蛛男」などのレビューとスティル映像が見られます。


http://www.ne.jp/asahi/betty/boop/contents.htm

 芦辺さん、ありがとうございました。(2002.9.1)




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